おはようございます。
多分、これが本年最後の記事にはなら無いので、ご安心ください。
大学時代、私はボクシング部に在籍しておりました。
ボクシングというのは、見た目は派手かもしれませんが、トレーニング、毎日やることは地味で、基本的には辛いことが多いです。
走れば息が上がるし、打たれれば痛い。
減量だってキツイし、負けたら男のプライドもズタズタにされる。
大学の入学式の日に入部し、卒業直前の四年生の1月13日まで試合をやりましたが、そのほぼ毎日、「ああ、辞めたいなあ」と思っておりました。
ボクシング、センスなかったしね。
三年生になる前の千葉での春合宿だったかな?朝日の出るゴルフ場の丘をみんなで走っている時に。
「キツイ思い、困難を乗り越えたその先に本当の幸せがある」と同期の人間が言いました。
その言葉を聞いた時、「一緒に楽しい思いをした仲間よりも、一緒に困難を乗り越えていった仲間の方が、結束が固いのではないか」とふと思ったことを今でも鮮明に覚えております。
そもそも、なんで好きでもないボクシング部に入ったのか。
小学校時代は、成績は5段階評価でほぼオール3という凡庸な子供でしたが(それでも、少6の時には学級委員長をやりました)、中学校になると、もう少しランクアップして、10段階評価で6~7、たまに8、英語はほぼ9、という感じでした。ペーパーテストはまあまあ良かったのですが、授業態度が悪く、、、。
外部の模擬試験とかでは、受けにいった生徒の中で1番、とかありましたよ。
先生に刃向かう(からかう)、課題は出さない、授業中に友達と喋る、、、ということで、内申点が悪かったんですね。
高校は、内申点が悪かったため、当時学区で上から4番目の高校に、550人中500番目くらいでギリギリ合格。
大学受験では、先生の評価とは関係がない、試験一発勝負なので、逆転してやろうと考えておりました。
学校が始まる前から、通う塾を決め、英・数と受講しました。
中学校時代は、理系が苦手だったのが嫌で、数学も滅茶苦茶勉強しました。
塾に通いづらいので、入った柔道部も途中退部し、夏期講習も冬季講習も通いました。
相変わらず、学校の授業態度は「?」でしたが、、、、。
←このことに関しては、今はとても反省しています。自分が教える立場になって、「教える」ということはどういうことか分かりましたので。当時の先生に対して、とても失礼なことをしていたと思います。
相変わらず、学校の成績にはあまり力を入れておりませんでしたが、それでも平均で7~8、特質すべきは、中学校時代は大体6だった体育の成績が、7~8、時には9になったことでしょうか。
身体も大きくなり、筋トレなんかも始めましたからね。
マラソンの授業の時なんかは、当時の恋敵(笑)でもあったテニス部のキャプテンと競り合って勝ったこともありました。
その後、そのテニス部のキャプテンと組んで、テニスのトーナメントで優勝しましたがね(笑。
うちの父親がエンジニアで、子供の適性など考慮せず、「男が文系なんて出てどうする!」なんてアドバイスをして、それを鵜呑みにしていた素直な私は、三年の夏休みまで私立理系志望でした。
学校の成績では、16番目くらいまで上昇したかな?模擬試験とかでは、学校で3位とかも取ってました。
努力の成果ですね。
でも、どうしても理系の仕事をする自分がイメージできず、高3の夏に文転します。
現役時代の受験は、惜しいところもあったけど、全敗。
浪人が決定し、河合塾千駄ヶ谷校へ通います。
毎日、1時間以上小田急線に乗って。
毎朝のように、親父と若者が満員電車の中で小競り合いをしていて、「将来は通勤電車に乗らない生活がしたい」と思っておりました。
浪人時代は、快適でしたよ。
受験に不要な理系の勉強からは解放され、受験に集中できる。
退屈な学校の授業もない。
予備校の授業はエキサイティングで、予習復習を欠かしませんでした。
偏差値は、英語が最初から73オーバー、数学が50~55、国語が45~50でしたね。
最後の最後の模試まで、この成績はあまり変わりませんでした。
一番最後の模試で、国語が73くらいまで激伸し、全国で4位になることができました!
この時は、周りの友人から、「もう、どこでも受かるでしょ!」と言われました(自分もそのつもりでおりました)。
実際には、受かった立教の他学部を含め、二つ落ちたのですが、、、。
ただ、第一志望であった立教大学法学部国際比較法学科には受かることができたので、まあ、一応勝利とは言えるかもしれません。
高校時代に、それまで1位になったことがなかった徒競走で1位になり、リレーもアンカーで、3位で渡されたバトンを受けて1位で駆け抜けました。
そんなこともあり、「自分はやればできる!」と思っていたんですね(幼児的万能感?)。
そして、予備校時代にストイックな生き方をして、達成感を得ていたので、それが大学時代に遊んで溶けて無くなってしまうのが嫌だったんですね。
「何か自分が向上するような、自分自身が鍛えられることをしよう」と思った。
これが、ボクシング部に入ろうと思ったきっかけですね。長くなったけど。
ボクシング部は、個性派ですけど、いい人が多かったですよ。
立教ですから、育ちのいい、お坊っちゃまも多かったですが、、、。
私も、それなりにお小遣いをもらって、甘やかされて過保護に育てられたので、高校時代には「ボン」などとも呼ばれましたが、単なる田舎者であることを思い知らされましたよ。
5連敗していた後輩が後楽園ホールで初勝利したり、可愛がってくれた先輩が関西学院との定期戦で初勝利した時には、抱きついて泣きましたよ。
また、前出の同期は、私が後楽園ホールで3連敗の後初勝利した時には、涙を流して「良かったな」と言ってくれました。
そんな男の友情を味わうことも出来ました。
そんな仲間に囲まれて、4年間、自分の身体と心を鍛えることが出来ました。
「体育会だから、勉強はそこそこでいい」なんていう人間もいましたが、私はそういう考え方が嫌いで、、、。
学生の本分は学問。
親が一生懸命に働いて稼いでくれた学費を、無駄にすることは出来ません。
特に私は、ボクシングを続けるために頼み込んで一人暮らしをさせてもらってましたから、、、。
空いた時間は、「論語」や「言志四録」などの儒教系の読書や、`NEWS WEEK`などの英語雑誌を読んでおりました。
お陰様で、海外経験は無かったけれども、大学卒業時のTOEICの成績は725点でした。
学校の授業もほとんど自分で出席して、ノートコピーは使わず、自分のノートで勉強して、3年次で卒業単位を全て取得しました。
自分でも、大学時代の四年間は、「よくやった」と思います。
これが自分の原体験、ベースとなっております。
だから、大学時代に遊ぶことばかり考えていた人、軟派系のサークルで、飲み会ばかりやっていた人とは、根本的に考え方が違って然るべきだと思います。
社会人にもなって、明け方まで一緒に飲んで、翌日は体調不良で遅刻してきたり、酒臭い息を同僚や部下に吹きかけるような人と一緒にいるのが、苦痛でたまりません。
「酒を飲まなければ聞けない本音もある」という人もいますが、酒を飲まなければ本音を言えないのは、「人に嫌われたくない」という気持ちが強い本人の問題であり、その人の弱さにこちらが付き合う義務はないでしょう。
社会に出て、「世の中って、こんなに汚れているんだ」と驚いたことを覚えております。
学生時代に、サークルで遊んできた人たちは、飲み会で酩酊状態で馬鹿騒ぎすることで絆が深まる実感があるのかもしれませんが、私からすると、それはお互いを「堕落させる関係」。
人と人との関係は、お互いを向上させる関係でありたい、と思うのが私の希望です。
「君子の交わりは、淡きこと水の如し」と論語にあります。
普段はサッパリと、でも本当に必要な時には、手を差し伸べる。
そういう関係でありたい。
難しいですかね?
最初に出てきた同期とは、今でも、数年に1回ですが、飲むことがあります。
普段から本音で接しているので、酒を飲んでも変わらないですよ。
たまにしか連絡を取らないですが、久しぶりに会えば、学生時代と同じように打ち解けられます。
いつだったか、「お前なら、1千万くらいなら金を出してもいいかも、、、」と言っておりました。
いや、出してもらってないですけどね。笑。
馴れ合いの関係が苦手なんです。
だから、皆様との関係も、「筆者ー読者」の関係でとどめ、それ以上を望んでないのです。
そこんとこ、ヨロシク。
では。
禅玄道士
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